トスカーナ西部の町ルッカは、城壁に囲まれた中世の面影を残す美しい街。「ルッカには100の教会がある」と言われるように、街中を歩き角を曲がれば新たな教会が目に飛び込んできます。そんなルッカの町でも、ひときわ大事な教会の一つ、サン・フレディアーノ聖堂(Basilica di San Frediano)を見学しました。
サン・フレディアーノ聖堂
ルッカの旧市街は直径1kmほどの小さな街。周囲をぐるりと城壁に囲まれていて、6つの門から入ることができます。このサン・フレディアーノ聖堂は、そのうちの一つ、北側のサンタ・マリア門から徒歩5分ほどの場所にあります。
見事なモザイク装飾の外観

この聖堂の目の前は小さいながらも落ち着いた佇まいのサン・フレディアーノ広場になっています。北のサンタ・マリア門から中心部に向かって歩いていくと、その広場の先にどっしりと構える聖堂が目に飛び込んできます。
大きな横幅の建物に白いきれいな大理石のファサード。そして何より印象的なのは、上部の堂々としたモザイク装飾です。
正確なサイズは不明ですが、横幅が教会の身廊と同じ、高さは正面入り口の扉とその上の壁龕を足したぐらいというと大体、想像がつくでしょうか。
図案は下半分がキリストの十二使徒ですが、彼らの身長は人間の等身大より少し大きいくらいになるのではないかと思います。

ここのモザイク装飾が作られたのは13世紀の終わりごろ。この技法は歴史が非常に古いものですが、大体このぐらいの時代以降は少しずつ割合が減っていきます。美術の潮流がゴシック美術へと向かっていくこともありますが、モザイク装飾というのは何よりお金と手間がかかるんですよね。
特に建物のファサードにモザイクが使われているのは、トスカーナではこのサン・フレディアーノ聖堂とフィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ教会の2か所だけ!とてもレアです。
図案の上半分は二人の天使に支えられたアーモンド形の光背に包まれた天に昇るキリスト、そして下半分は十二使徒です。実は下半分の真ん中にはかつて聖母マリア(イエスの母)が描かれていたそうですが、後世に窓を開けた際に切り取られてしまったとのこと。残念です!
4世紀にさかのぼる古い歴史
この場所には、4世紀に既に古い宗教的な建物があったとされています。その時代には、聖ヴィンチェンツォ(ヴィセンテ)、聖ステファノ(ステファン)、聖ロレンツォ(ラウレンティウス)という3人の聖人に捧げられていました。
この時代の遺跡が、現在の聖堂の地下に残っているようです。
伝承によると、560年から588年にルッカの司教を務めたアイルランド出身の聖フレディアーノが、現在の聖堂の前身となる建物の建設を開始しました。
その後、ルッカを含め様々なイタリア半島の町がランゴバルド人という民族の支配下に入るのですが、実はこの教会が初めて記録に現れるのは685年のこと、ランゴバルドの聖堂としてでした。さらにこの時代に聖フレディアーノの時代よりも大きくなったようです。
8世紀の終わりに聖フレディアーノのご遺体を安置する地下墓室が作られ、それから教会の名前は聖フレディアーノと聖ヴィンチェンツォとなりました。
さらに1112年には改築が始まり、1147年に教皇エウゲニウス3世によって奉献されました。
実はこの時代にはまだ教会の内装が今と違った形で、天井はずっと低かったようです。それから身廊のそれを上に広げ、木の枠組みを使った天井が13世紀に建築され、先ほどのモザイクで装飾されたファサードが設置されて完成となりました。その後の時代は、14世紀から16世紀にかけて側廊と、そこに個人所有の礼拝堂が増築され、ほぼ現在の姿へと至りました。
内部の建築スタイル
ロマネスク様式

内部はとても簡素なつくりで、典型的なロマネスク様式。等間隔に並ぶ柱と、半円型のアーチで身廊と側廊が分けられています。大理石はベージュがかった白系の色ですが、色のグラデーションがなんとも上品な雰囲気を醸し出しています。
後陣(アブシデ)
窓は全体的に小さめで、後陣(アブシデ=中央祭壇の後ろ部分)にはステンドグラスの入った窓があります。でも、規模はゴシック時代のそれと比べるととても控えめな感じ。また、後陣の天井には特に装飾がなく、とてもシンプル!

中央祭壇下には聖フレディアーノのご遺体が埋葬されているそうです。
天井は13世紀の木の枠組みの天井。これもこの時代の典型ですね。

説教壇
身廊の中ほど、やや中央祭壇よりに説教壇があります。これも大きくて古い教会でよく見られるもの。
かつて、教会の内部が聖職者用ゾーンと一般信者用ゾーンに分けられていた頃、大勢の人に説教をするために使われていた台です。

ファサード内部
ファサードの裏側には16世紀ボローニャの芸術家、Amico Aspertiniのフレスコ画『玉座の聖母子と四聖人(洗礼者聖ヨハネ、聖アガタ、聖マルガリータ、聖セバスティアヌス)』&『マリアのエリザベツ訪問』と壮麗な16世紀のオルガン。ルッカの他の教会でも、外観が古くてシンプルだったり、小さかったりするけど中に入ってみると不釣り合いなほど立派なオルガン、というところを結構見たように思います。他の町ではそんなに見たことのないパターンだったので、印象に残りました。

オルガンの設置してある箇所の装飾は特に豪華ですね!高さは外のファサードで言うと、モザイク装飾の少し下の辺りまで来るとても存在感のある大きさ。
台の部分は木の飾り模様に金箔が施してあって、レトロクラシックだけどとても豪華なものだとわかります。この部分は17世紀のものだそうです。

聖堂内部の美術作品
ロマネスク美術の洗礼盤
聖堂に入って右手には豪華な洗礼盤があります。

洗礼盤は12世紀の作品で、装飾のテーマは旧約聖書より『モーセの物語』。人間の体のバランスがローマ美術のそれですね。シンボルとして場面を描き出すことに注力しており、また遠近法もまだ確立していなかった時代。また作者の名前も残っていませんが、恐らく3名の手になるものとされています。
洗礼盤の後ろにはデッラ・ロッビア風の釉薬テラコッタ『受胎告知』。デッラ・ロッビアといえば15世紀から16世紀にかけてフィレンツェで人気だった芸術家一家。彼らの釉薬テラコッタ作品は、長らく一家の門外不出の秘伝技術とされていました。特にルカ、アンドレア、ジョヴァンニの3名が有名ですが、この作品は一族のマッティア・デッラ・ロッビア(1468-1534)の帰属とされているそうです。
確かにマリアの表情なんかは、その3名の作品のどれにも近くない気がします。
救いの礼拝堂
ここは洗礼盤の後ろに位置する礼拝堂。結構広さがあるので、持ち主はかなり裕福だったのでしょう。
また、色々な時代の美術作品や建物装飾が入り混じっており、興味深い場所でした。
礼拝堂自体の建設はこの教会の他の礼拝堂と同じく、1500年代のこと。

礼拝堂に入って左の突き当りには大きな祭壇画『救いの聖母(Madonna del soccorso)』があります。
ところでイタリア語で救急窓口のことを「Pronto soccorso」というのですが、実は私は長らくsoccorsoという言葉の意味は「緊急の、急ぎの」というようなことだと思い込んでいました。が、ここで初めてその真の意味が「救助、救援、援助」であるということを知ったのでした…
気を取り直して、そういうわけでここに描かれているのは右に黒い悪魔、それから子どもを救っている聖母マリアが中央でこん棒のようなものを振り上げてまさに追い払おうとしているという場面です。
この信仰は14世紀頃シチリアのパレルモから広まったそうです。

この礼拝堂はとにかく天井の装飾が立派!裾の部分は立体的に見えるだまし絵形式になっていて、区切られた部分にはそれぞれ花やメダル、額縁など様々な装飾が非常に精密に描かれています。
この他、近くの墓地回廊から移されてきた13-14世紀の『休息の聖母』や、壁の一部にロマネスク様式の柱が残っていたりと新旧様々な様式が取り入れられていました。
15世紀の傑作、多翼祭壇彫刻
左側廊の主祭壇よりに『トレンタ礼拝堂(Cappella Trenta)』があります。
ここにはルッカの裕福な商人、Lorenzo Trentaからの依頼でJacopo della querciaという芸術家が制作した素晴らしい大理石の多翼祭壇彫刻があります。

ヤコポ・デッラ・クェルチャという人はシエナ生まれの芸術家で、若いときに父と共にルッカに引っ越してきました。
シエナの他フィレンツェやサン・ジミニャーノなど、トスカーナ州のあちこちの町にたくさん作品を残しています。作風はまさにゴシックからルネサンスへの転換期に活躍した芸術家らしい、豪華な装飾の名残を残しつつも自然な描写に取り組んでいる特徴が表れています。
ちなみにこの礼拝堂の仕事を受けている間に、男色など様々な罪で告訴され、シエナに逃亡。その後ルッカに戻りこの仕事を仕上げたそうです。
上の聖人はすべてヤコポの手になるものではなく、いくつかは助手に任せられたもの。また、この祭壇の前には注文者ロレンツォ・トレンタとその妻のお墓がありますが、こちらもヤコポ作です。
このように床面にはめ込まれた墓石に人が横たわった姿を象ったものは教会の床に時々ありますが、これはこのお墓の持ち主の生前の姿に似せて作られていることが多いです。

サン・フレディアーノ聖堂、外観と内部のイメージが一致する、古風で伝統的な教会でした。この他にも様々なフレスコ画や木製彫刻など、興味深いものが多かったです。